転ぶということについて
美味しい柿が買えて、ルンルンと前を見て歩いていたら、車止めに躓いて見事に転んだ。
でも、骨は折らなかった。
なんて運が良いんだろう。
骨太に生んでくれた両親に感謝だ。
この年齢になると、転んで骨を折る人が多い。
知り合いでも、玄関で転んで骨折、なんて話も聞いた。
僅かでも、体操や片足立ちをしなくてはいけないのだが、それがなかなかである。
「運転者」を読む。
運に見放されているという主人公が、「運」について考えていくのだが、その運、自分が使わなければ、自分の想う相手に贈る事が出来ると言う。
「徳を積む」なんてことも言うけれどもね、徳を積む前に、自分が使っちゃう気がするけれど、でも、自分が少し我慢をすれば、それを甥やチビ娘に贈れると思えば、我慢しちゃいそうな気がする。
徳なんて言ってもね、せいぜい自分にできる事は、不機嫌な顔をしないとか、意地悪をしないとかだけれどね。
不機嫌な顔も意地悪も大好きさ。
やろうと思えばいくらでも。
その悪魔的な魅力の力と同じくらい、チビ娘の将来に光あれと祈る。
別に東大法学部を首席で出なくても良いんだよ。
チビ娘が毎日元気で、楽しく暮らせていれば、おばあさん(私)は充分なんだよ。
できれば、自分がしたい事を、しっかりわかって進めば、もっと人生は色濃く過ごせるかもしれないね。
そのために、私は大人しく、他人に迷惑をかけずニコニコと、良い人を装い続ける。
そう、装っているんだ。
姉が2階で電気シーツのスイッチを入れに行って転んだ。
結構な音がしたそうだが、下にいる私は気が付かず、姉はブーブーである。
面倒なので、それからは2階へスイッチを入れに行くのは私にしている。
あくまで面倒だからである。
ぐずぐずとうっとおしい事を、聞いているのが面倒なのだ。
もう、ひたすら姉には逆らわず、毎日平穏に過ぎることを願っている。
でもね、根が根性悪の私だから、良い子ぶっていると、時々エネルギーが切れる。
世間の人は、こんな時どうするんだろうね。
エネルギー補給の良い方法があったら教えて欲しいものだ。
最後までお読みいただき有難うございました。