古い手帳を整理していたら、2014年4月6日読売新聞、文化面、小児科医「熊谷正一郎」氏の記事が切り抜かれてあった。
信田さよ子著「増補 ザ・ママの研究」についての書評であった。
要約すると、「家族」という支え合いのネットワークの中で生じる量の不均衡がどのような病理をもたらすかについて書かれている。「距離を置いて母を眺め、研究すること」の意義を説いたものだ。距離を置き、水平な視線で母を見つめようと呼びかける。
その視点から見てはじめて、母もまた、当時の私と同じように頼れる先の少なさに苦しんでいたのかもしれないと気付くかもしれない。その認識は母との再会のきっかけとなるだろう。
なぜ、この文章に心が惹かれるかというと、理由は2つある。
1つは姉と甥の問題である。
姉は、自分が両親から愛されてこなかったと主張する。
私から言わせると、離婚しても姉と子供達に仕送りをしてくれて生活を支え、孫の学費を送り続けてくれた両親は、娘可愛さゆえの行為で、充分に愛されてきたのではないかと思う。
でも、主観と客観は違うからね、本人は姉妹3人の内、私(姉)だけが愛情不足だと主張する。
だから、本人は「頼れる先の少なさ」にいつも不安を感じていたのかも知れない。
だから、息子から来たメールの「もうこちらから連絡することはないと思います」の1文が許せないのかもしれない。
しかし、頼れるものの少なさに不安を感じてきたなら、自分が息子にとって頼れる存在で有り続けたいとか思わないのかな。
息子は母親とは距離を置きたいという。
多分、面倒くさいのだろう。自分の家族と母親が揉めるのが・・
何か、それも良いのかな・・と思ってしまうけど、でも、母親も息子もお互いに残されている時間は少ない。
2つ目は自分の問題。
私は3人姉妹の末っ子なので、年の順からいくと、最後に残るのは私。
子供もいないし、頼れる先は無くなってしまう。
甥は勿論いるけれど、甥の荷物にはなりたくない。
入院とか、施設への入居とかに必要な保証人は悩みの種だ。
司法書士とか、弁護士に成年後見人を頼むことができるけれど、結構な費用が毎月かかり、生活費も不安な身ではとても考えられない。
そうすると、もう付き合うまいと思っていた親族とも付き合っていかなければいけないのか・・
もう、誰とも会わずに籠って暮らしたいというのは夢となる。
将来、面倒をかける相手と思えば、頭を下げる事もやむなしだろうか。