文京区の貧困について、他人との比較から貧困感が生まれると書かかれた文章を見て思った事。
1、比較からの貧困は無くならない
例えば文京区では小学校4年くらいから塾に通う子供が多い。その中で塾に通えない子供は、なぜ自分だけは・・という思いを抱き、貧困感を強めていく。というような事が書かれていた。相対的貧困もそうだけれど、比較で貧困を定義すると、絶対に無くならない。当たり前のことだけれど。無くならせるとしたら共産制にでも移行するしかない。
確かに、東京で勤めていた頃、ミンクのコートが流行り、女の子達がミンクのコートで出勤しているのを見て、私もミンクのコートが欲しかった。だから、周りと比較して貧困感を感じる気持ちはわかる。なぜ自分だけ・・という気持ちになるのはわかる。
でも、貧困とは何かという自分の尺度を持っていなければ、ただ他人と比較して淋しい気持ちになるだけだ。
2、貧困とは何だろう
西表島の浮舟集落という所に行って、子供4人のための小学校を見てきた。結構立派な建物で、職員は10名だそうだ。その時、日本って豊かな国だなぁと思った。4人の子供のために、海路を運んだ建材で鉄筋コンクリートの小学校を作り、給食も含めて10人のスタッフが駐在する。勿論職員宿舎も建てられている。でも、塾に通うなんて無理だろう。たいたい塾が無いものね。そのうち、タブレットを使った通信塾が普及するかもしれないけれど。少なくとも、ここの小学生は塾に通えない事で自分を貧困だとは思っていないだろう。
3、欲しいものを選別していく
昔(30代くらい)はスタイルも良くて、良い服も着たくて、美人と言われたくて、頭も良いと思われて、優しい人だと噂されたかった。
まあ、しかし、60代も半ばとなれば、シャネルの服もバックもいらない。化粧するのも面倒だ。今日着ている服は15年前のものだ。確かに、今いる環境がそれを許しているけれど。ちゃんとしたオフィスビルにでも出勤するなら、ちゃんとした服装が必要だろうが、田舎の事務のおばちゃんだ(あれ?おばぁちゃんか?)。
何とか気持ち良く眠れる場所があって、美味しいものと言っても地物の野菜とか果物とかが食べられれば充分幸せだ。多分、余所目から見ると私は夫も子供も無く、田舎の女性の給料だって知れている。相対的貧困の部類に入ってしまう。でも、大部分の時間は自分が貧困だと自覚していない。美味しいお茶の一杯も飲めば、何と幸せな時代に産まれたかと思ってしまう。