飯田では桜の開花宣言が出たようで、ようよう春らしくなってきた。
昨日は「ギャンブルを理由に生活保護を止めてはいけない」という記事を読む。
以前来ていた銀行のお兄ちゃんは、たばこ・お酒・ギャンブルをする相手にお金を貸せてはいけないと言っていた。
生活保護を受けている人や借金をしている人はギャンブル(嗜好品をたしなむ)をしてはいけないのか?
何となく、世間は生きていくのに最低必要では無い嗜好品は保護されている、又は借りが有る人間には贅沢だという気分がある。
その気分は良くわかる。貸せた方が1本の牛乳にも考えている時、借りた人間が生ビール飲んでいたら、ちょっと、その前にお金を返せよねと思う。
しかし、お金を借りた人間は返し終わるまで、ず~と最低限の食事をして娯楽は何もせず、働き詰めにして下を向いていなければいけないのだろうか。
それもちょっと悲しい。
大概、金融機関経由のお金の貸し借りは期限と条件がある。
それさえ外れなければ、多少の贅沢もいろいろ言われない。
問題は個人間の貸し借りだろう。それも、期限も条件も守られないもの。
だいたいが、個人に話が来る時点で、ある程度破綻している。
金融機関が相手にしてくれないので、個人に頼みに来るのだろう。
とてもリスクは高い。
結論は、個人では貸してはいけないということだろう。
あげるつもりで貸すのは良いが、貸していると思うと恨みが残る。
それは、自分の精神に誠に悪い。
自分の見る目が無かったと諦められる範囲を見極めるのが大切だろう。
そして、例えばギャンブルをするお金が有るなら、栄養のある食事をなどと相手の事を気に病む事はない。
それは、相手の趣味の問題だ。
人生が辛くて、ギャンブルやお酒に逃げる時もある。
人間、誰でも頑張って前向きにと思う時も有るけれど、どうしようもなく落ちていく時もあるのだ。
ただ、これでは・・・と思った時、誰かが手を差し伸べてくれるような世の中であってほしい。
でも、その手を掴むためにも、まず生きていなければいけない。
人間が生きているという事は、生存に必要な摂取カロリーと酸素だけでは無理だ。
できたら、ギャンブルをしても、夜な夜なお酒に溺れても、目の前の手を掴もうと思う時まで生きてほしい。
そして、それを許す世の中であって欲しい。