安曇野だより
桜が満開になりました。菜の花も黄色に咲いています。
突然の訃報
◇ 1通の葉書
金曜日に家に帰ると、30年前の同僚から葉書が届いていた。ちょっと慌てた文字で、葬儀の連絡だった。
◇ 内容は30年前の上司の訃報
昨秋から病気療養中だったのが、11日にご逝去されたとの連絡だった。毎年お年賀だけは出していたが、今年は何の連絡も無かったので、もうご迷惑なのだろうか。来年は控えた方が良いのかなどと考えていた。お元気な姿しか思い浮かばなかったので、一瞬呆然としてしまった。立派な方だった。
◇ 悲しくて仕方が無い
信じられない想いで、時間が経つにつれ、悲しみが増してくる。今の私の周囲にはこの上司を知っている人もいないので、話もできないし、かつての同僚に電話をするのも憚られる。なぜなら、もう30年近く会ってもいない人達なので、何とは無し話ずらいのだ。でも、誰かに聞いてもらいたくて、ここに書いてみた。
出会いは25歳の時
大学院を出たものの、女の子の就職口は無くて、担当教授がアルバイトの口を紹介してくれた。某研究所のアシスタントで、その時の上司だった。仮にAさんという。多分、当時30半ば、40代では無かったと思う。明るい、落ち着いた感情の安定した人だった。2年ほど嘱託として働いた後、Aさんが推薦してくれて所員として就職できた。殆ど怒るという事の無い人であった。人を不愉快にする言葉遣いや、しぐさは決していなかった。Aさんは仕事の実績も研究所ピカイチである。彼のアシスタントが出来た時期は本当に貴重なトレーニングとなった。私はまだ若くって、早く研究員として自立したいと焦っていたりして、地方の出張とかに連れて行ってくれとねだった。当時は女の子はアシスタントという位置付でしかなかった。出張に初めて連れて行ってくれたのもAさんだったし、社内研修に出たいという希望も聞いてくれた。北海道に出張に行った時は空港のジンギスカンが美味しいとお土産に買ってきてもくれた。私は可愛がられたと思っていたが、どうやら歴代のアシスタントをした女性は、我こそはと思っている様である。その後、女性参画などと騒がれる様になり、女の子にも研究員の道が開かれ、Aさんに推薦してもらって、漸く研究員となれた。その代わり、私も人事異動の対象となり、Aさんから離れた。Aさんは、地方の出身だけれど、中学の時から東京に出て勉強していらした。酔うと、実は初恋の女性が東京に行ったので、それを追いかけて上京したかったのだとニコニコと話していた。まだ寝台特急のある頃で、出来立ての報告書を持って飛び乗ったりした思い出も懐かしい。愛妻家で、私が勤めている頃に男の子2人に恵まれた。喪主は長男の方のお名前が載っている。もう30半ばになられるだろうか。Aさんは、どこから押しても不安げな所の無い人だった。素直に、私の人生で最も尊敬ができ、好意を表せる男性だったといえる。年に1回年賀状をお送りしするだけであったが、生きていらっしゃると思うだけで、何とはなく安心していた。どこかで、「やあ元気そうだね」と言ってもらえる事が有るかもしれないと妄想していた。もう、そんな事は無い・・・。ご葬儀には参列しなかった。ちょっと、東京まで出かける元気が出なかったし、行っても会えるわけでもなし、ただ行き帰りに一人で泣いてくるのも・・・
どうか安らかにお休みください。遠くからですがご冥福をお祈りいたします。
合掌