自分の最低限の身の回りのことも放棄してしまう事を「セルフネグレクト」と言うそうです。日本語では「自己放任」と訳すそうです。
理由は色々あって、病気によるものもあるので、一概に本人だけの問題では無いのを承知の上で、自分の決心を言うならば、私は「セルフネグレクト」をしない。
逆に、決心をしなければ、簡単に「セルフネグレクト」に陥る危険があるという事ですが・・。
両親に愛された思い出がある。そして、多分、両親以外にも
私は末っ子だったので、両親の経済的、精神的余裕のある時期の子供だったという幸運から、両親に溺愛されて育ったという自覚がある。だから、人が自分に好意を示すことが当然だと思ってしまった。まぁ、これは諸刃の剣で、あまり他人を警戒しないで好意を示せるという反面、拒絶されると、意外に傷を深くした。そして、多分、両親以外にも私を愛してくれた人がいたと思う。歯切れの悪い理由は、少なくとも自分の気持ちはわかるけれど、相手の気持ちは心底まではわからないという思いと、あまりに早くこの世を去ってしまったので、私は一人おいていかれたようで、しばらく喪失感から立ち直れなかったからである。
父が逝き、母が逝った時、これで、お前がいなければ生きていけないと言ってくれる人がいないと思うと、「セルフネグレクト」に近い感情となった。姉たちも気を使ってくれるけれど、それぞれの家族がいる。お前のために生きているというほどの人はもうどこにもいなかった。
死んでしまっても身近に感じる雰囲気
有る時、ふと両親や死んでしまった人の雰囲気を感じる時があった。死んでしまったけれど、何となくこんなことを考えているだろうなと言う感じ。それは、ひたすら、私が不幸だと悲しむだろうという思いである。不幸というのは、客観的な事象ではない。他人の目から見れば、結婚もせず、子供も居なくて、それこそお金も無い。もちろん美貌も無い。他人から見れば充分可哀想な女である。
でも、私は自分を可哀想だとは思わない。そんなことを思って生きていたら両親がどれほど嘆くか。お前が幸せなら、どのように生きても良いと両親は言うだろう。だから、毎日食事もキチンとして、朝起きて(当たり前だけれどね)、ストレッチもして自分を大切にして、笑顔で生きていきたい。
あの世はあるのか、無いのか
私自身はスピリチュアルな世界に縁がないけれど、今までに2度ほど後ろにゾロゾロ・・と言われた事がある。ご先祖様とか両親とかいろいろな方がついているらしい。
淋しく無くて良いじゃないですか。と言うと、本人自身の波長が狂うと言われたけれど、多分頼りない私が心配でついてきているんだろうとも思う。あの世はあるのか、無いのか、定かにはわからないけれど、もし、心配していてくれるならば、カラ元気でも、大丈夫、私は幸せだよと言いたい。
生き切る覚悟、死に切る覚悟
乱暴な生活で、自分を放棄して死に急ぐ事はすまい。自分でできることは他人には頼るまい。そして、いつか迎える死。これは結構怖い。しかし、誰もが通る道である。私が通れないということもあるまい。その時が来たら、無理な延命やジタバタせずに自然に歩いていきたい。
そうだ、そろそろ遺言書を書かなくっちゃ。